ITエンジニア企業・佐伯社長物語(社長の胸の奥に沈殿する静かな孤独)
- tsunemichiaoki
- 1月5日
- 読了時間: 9分
ハーモニー経営の一端を垣間見ていただくために、あるITエンジニア企業の社長の苦難、そしてそこから這い上がる物語をお伝えします。
第1話
創業社長・佐伯の胸に沈殿するもの
――業務多忙のITエンジニア企業の中の静かな孤独

■ 順調であるはずの朝
佐伯 一博は、いつもより少し早くオフィスに入った。都心の雑居ビルの一角。創業から二十年、場所は三度変わったが、この「朝の匂い」だけは変わらない。
コーヒーの湯気。夜を越えて残った空調の冷気。誰もいないフロアに、かすかに響く自分の足音。
(……今日も、特に問題はない)
無意識に、そう言い聞かせるように思った。
売上は悪くない。取引先も安定している。社員数も、この規模のIT企業、そしてITエンジニアがひっ迫している昨今の環境からすれば十分すぎるほどだ。
だが、佐伯の胸には、いつからか「何かが足りない」という感覚が沈殿していた。それは焦りでも、恐怖でもない。
もっと言えば、言葉にしようとすると、形が崩れてしまう類の違和感だった。
社長室のデスクに腰を下ろし、ノートパソコンを開く。メールは相変わらず多い。ほとんどが顧客対応、契約更新、常駐先からの事務連絡。
(……人の顔が、見えない)
ふと、そんな思いが浮かんだ。
■ 「客先常駐」という日常
佐伯の会社のエンジニアの七割は、客先常駐だ。これは業界では珍しくない。むしろ「堅実な経営」と評価される部類だ。
だが、その「堅実さ」が、いつからか佐伯を苦しめていた。
社員のほとんどは自社には来ない。客先へ直行し、仕事を終え、まっすぐ家に帰る。
つまり直行直帰。
会社で顔を合わせるのは、幹部であれば月に一度の全体会議。
一般社員になれば評価面談のときくらいだ。
「社長、現場は問題ありません」
部長からの報告は、いつも簡潔で整っている。数値も、トラブル件数も、想定内。
だが佐伯は、その報告の奥にある“温度”を感じ取れなくなっていた。
(問題がない、ということが、本当に問題がないという意味なのか)
そう自問しても、答えは返ってこない。
■ 退職届という「定期便」
月に一度、人事担当から上がってくる資料がある。退職者一覧だ。
特別多いわけではない。だが、少なくもない。
「佐伯社長、今回も一名です。二十代後半、プログラマー。理由は“キャリアの見直し”と」
人事担当者の声は、淡々としていた。
それがこの業界の“普通”だからだ。
佐伯は、一覧に目を落とす。名前に、うっすらと見覚えがあった。
(……どこかで、話したことがあったかな)
思い出せない。それが、ひどく胸に引っかかった。
■ 創業期の記憶
ふと、佐伯の脳裏に、創業当初の光景がよみがえる。
小さな事務所。中古のデスク。夜遅くまで続いた議論。
あの頃は、社員一人ひとりの顔も、声も、悩みも、自然と頭に入ってきた。技術の話も、人生の話も、境目なく混ざっていた。
(いつから、こんなに遠くなったんだろうな……)
会社もすこしは大きくなった。仕組みも整った。
昔、思い描いていた会社らしくなった。
だが、その分、何かを置き去りにしてきた気がした。
■ 噛み合わない会話
数日後。佐伯は、若手エンジニアとの面談に臨んでいた。
「現場はどうだい?」
「特に問題ありません」
「やりがいは感じられるかな?仕事に充実感は感じられるかな?」
「……普通です」
言葉は丁寧だが、そこに熱はなかった。佐伯は、次に何を聞けばいいのか、一瞬わからなくなった。
(俺は、何を聞きたいんだ……?)
沈黙が、会議室に落ちる。若手は視線を落としたままだ。
その瞬間、佐伯ははっきりと自覚した。
――自分は、社長として、社員とどう向き合えばいいのかわからなくなっている。
■ 誰にも言えない孤独
社長という立場は、強い。少なくとも、外からはそう見える。
だが、弱音を吐く相手はいない。
「順調じゃないですか」と言われるたびに、胸の奥が少し冷える。
(……順調、か)
夜、オフィスを出ると、ビルの外は静まり返っていた。佐伯は立ち止まり、しばらく空を見上げた。
理由はわからない。ただ、このままではいけないという感覚だけが、確かにあった。
■ まだ名前のない違和感
その違和感には、まだ名前がない。解決策も、方向性も、見えていない。
だが、佐伯は薄々感じていた。
このまま「何も起きない状態」を続けることが、会社にとっても、自分にとっても、一番危険なのではないか。
胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
問いが生まれた瞬間だった。
■ 社内の声は遠く
佐伯はデスクに向かいながら、ふと社員のスケジュール表に目を落とした。多数のエンジニアは、今日も終日、客先常駐だ。
その多数のエンジニアとの関係は、週次の報告メールや、タスク管理システムへの書き込みという文字情報だけ。
“声”は、まず送り届けられることはない。届くものは、形式化された報告書か、数値に置き換えられた作業結果。
そこには、個々人の思いも、悩みも、熱も、見えない。
(……これでは、社長として大事なことに向き合えないのでは)
佐伯は、キーボードに手を置きながらも、どこか空虚感を覚えた。情報はある。だが、人の気配はない。データは正確だが、感情は読み取れない。
■ チームビルディングの難しさ
その日の午後、佐伯は管理職との会議を開いた。議題は「社員の離職防止とモチベーション向上」。
表向きの資料は完璧だ。離職率、案件稼働状況、スキルマップ。しかし、会議室の空気は冷たく、活気はなかった。
「エンジニアは、今後のキャリアに漠然とした不安を抱えているのではないでしょうか」
部長がそう報告する。だが、言葉に熱はなく、数字の羅列に近いトーンだった。
佐伯は心の中でつぶやく。
(このままじゃ、誰も動かない)
社長として、現状の課題は把握している。だが、動かす手段が見えない。何かを変えたい。
だが、何から手を付ければいいのか、具体的に言葉が出てこない。
■ 小さな兆し
会議が終わった後、佐伯はオフィス内を歩いた。一人の若手エンジニアが席で黙々と作業している。
名前は中村。入社三年目だ。
佐伯は思い切って声をかけた。
「中村、ちょっといいか」
中村は驚きながらも顔を上げる。
「社長……?」
佐伯は少し笑いながら椅子に腰かけた。「君は、仕事で困っていることはないか?」
中村は一瞬言葉を探す。「……困っていることですか」
「特に……」
沈黙の時間が流れる。
佐伯はたまらず声を発してしまった。
「いきなりじゃあ無理か」
「ちょっと考えてみてくれないか」
「また聞きに来るよ。邪魔して悪かったな」
中村の表情には困惑の色があった。
翌日、佐伯はまた中村のもとに向かった。
「社長……」
「どうだい、少しは考えてみてくれたかな……」
「えっ……」
再び沈黙の時間が流れる。
中村にとっては、社長がまさかまた来るとは思ってもいなかったのだ。
考えておいてくれ、と言われても、どうせ社長の何か思いつきか気まぐれだろう、としか感じられなかった。
だから、考える時間よりも目の前の仕事をこなすほうが大事だった。
「あれっ、業務に忙しくて、考える時間とれなかったかな」
「あっ、はい、すみません」
「そうか……」
佐伯は落胆を隠しきれなかった。
社長としての指示なんだから、当然やっていて当たり前、という感覚から抜け出していなかったからだ。
だが現実は違った。
社長の発言の重みが、自分が考えているレベルと実際に社員の方で受け止めるレベルに明らかに温度差がある状況だった。
そのことを今、まざまざと見せつけられる状況だった。
(いつからこんなことになってしまったのだろう……)
考えても佐伯にはすぐ答えを出すことはできなかった。
とはいえ、今ここで中村を叱責するのは全くの無意味、いやそれどころか逆効果だ、ということはさすがの佐伯でもわかっていた。
事態を飲み込むまでに少し時間を要したが、気を取り直し、
そして、表情を可能な限り柔和な顔にするように努力を傾け、言葉を絞り出した。
「仕事に追われる中、すまんな……でもやっぱり中村の本心を聞かせてほしいんだ。明日何時ごろだったら大丈夫そうかわかるか」
「はい、明日は午後であれば大丈夫です」
「そうか、じゃあ明日の2時ごろまた来るな……」
ここまでやり取りして、ようやく佐伯の本気は中村に伝わることとなった。
翌日午後、佐伯の姿は3たび、中村のデスク脇にあった。
今日はきちんと中村は言葉を用意していた。そしてこれまでの「問題ありません」という取り繕った言葉ではなく、本心とも思える言葉が……。
「仕事で困っていると言えるのかよくわからないのですが……正直、作業の意味を考える時間が少なくて……。やっていることは確かに必要だということはわかるのですが、自分が何のためにやっているのか、分からなくなるときがあります」
佐伯の胸に、微かな熱が走った。言葉は短いが、オブラートに包まれていない本音と思える言葉を聞くことができた。これこそ、求めていた“声”だ。
■ 現場の小さな声を拾う
その夜、佐伯は一人オフィスに残り、ノートを開いた。中村の言葉を書き留める。
「作業の意味が分からない」「キャリアの方向性が見えない」「誰に相談すればいいのか分からない」
小さな声だが、確かな存在感がある。数字や報告書では測れない、現場のリアルだ。
佐伯は決意した。(これを、放置してはいけない)
■ 最初の行動
翌日、佐伯は全社に向けて、メールを送った。タイトルは「声を聞かせてほしい」。
内容は簡単だ。「日々の業務の中で困っていること、悩んでいること、気づいたことを匿名で教えてほしい。全社員に向けた簡単なアンケートを設置しました」
アンケートはGoogleフォームで作成。回答は社長だけが確認できる設定にした。
目的は明確だ。数字だけでなく、社員の生の声を知ること。
そして、少しずつでも「社長と社員の距離」を縮める第一歩にすること。
■ 初めての反応
アンケートは1週間の締め切りで多少は回答が集った。
数は少ないが、中村のように正直なコメントもあって、驚くと同時に、胸が熱くなる。
「プロジェクトの目的が伝わってこない」
「評価基準が不透明で不安」
「もっと気軽に相談できる場所がほしい」
佐伯は、ひとつひとつ目を通す。
数字ではない。熱量でもない。だが、確かに“現場の想い”がそこにはあった。
■ 孤独と小さな共鳴
その夜、佐伯は窓の外を眺めながら、静かに息をついた。
孤独はまだ続く。全員が答えを返したわけではない。
いや、むしろほんの一部の社員がメッセージをしてくれただけだった。問題が解決したわけでもない。
だが、確かに“共鳴”が生まれた瞬間だった。
■ 見えない波紋
佐伯は、アンケートのコメントを元に、小さなアクションを考え始める。
部署横断のオンラインミーティング
週一回の雑談時間
社員の声を集めた匿名掲示板
小さいが、手を付けられることから始める。ここから先、どれだけ波紋が広がるかは未知数だ。
しかし、初めて自分の目で、社員の“声”を確認した。それは、数字や報告書以上の意味を持っていた。
■ 結び
佐伯は、創業者としての責任を改めて実感する。
順調に見える会社。だが、実際には社員との距離、誇りの喪失、コミュニケーションの断絶という課題がある。
“問題は見えないところにある”
――佐伯の胸には、この真実が深く刻まれた。




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