介護施設 施設長・佐藤の人間理解物語ー効率を求めるマニュアルの網の目ー第2話
- tsunemichiaoki
- 1 日前
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第2話 効率を求めるマニュアルの網の目
――「正解」を重ねるほどに、心は迷路へ迷い込む
■ 完璧なルーチンの綻びと、現場の「音」
その日の午後は、どんよりとした低い雲が空を覆い、施設全体が湿り気を帯びたような異様な重苦しさに包まれていた。
佐藤は事務室で、翌週に控えた法人の「効率化進捗会議」に向けたプレゼン資料をまとめていた。画面に並ぶのは、残業代の推移、事故発生率の低減グラフ、そしてケアの平準化を示す統計データ。どれもが、佐藤がこの一年間命を削る思いで積み上げてきた「勝利の証」だった。
その結果が評価されて佐藤は法人の役員に抜擢されていた。
だが、その自信を切り裂くように、インカムから鋭い音声が飛び込んできた。
『こちら3階デイルーム。松本さんが、午後のレクリエーションへの参加を強く拒否されています。誰か何か松本さんに関する情報お持ちの方いませんか?』
発信者は、ケアリーダーの真壁佳子(42歳)だ。彼女は佐藤が着任して以来、誰よりも佐藤の「標準化」を支持し、現場に浸透させてきた最も忠実な右腕だった。
以前の混沌とした現場で、誰よりも疲弊し、誰よりも同僚との責任のなすり合いに傷ついていた彼女にとって、佐藤のマニュアルは「救いの神」だったのだ。
『拒否? 理由は。体調に変化があるのか?』
佐藤がすぐさまインカムに反応を示すと、真壁の規律を乱されたことへの苛立ちが混じった声が返ってきた。
『いえ、バイタルは正常。熱もありません。ただ、「今は動きたくない」と一点張りです。すでにスケジュールが10分押しています。このままだと、15時からのリハビリ移送チームの動線と重なり、廊下で渋滞が起きまると思います。……施設長、指示を。強制的にでも誘導してよろしいですね?』
「強制」という言葉が、佐藤の胸に冷たく突き刺さった。
昨夜、松本さんの虚無的な表情を見たばかりの佐藤には、その言葉の響きが耐えがたいものに感じられた。
『……私が直接行く。それまで待機してくれ』
■ 「対話」を忘れた、美しすぎる地獄
3階に上がると、そこには以前の「戦場」のような騒がしさは微塵もなかった。しかし、代わりにあったのは、言葉にならない圧迫感だ。
職員たちは松本さんの周囲を気にしながらも、手元のタブレットが告げる「次のタスク」に追われ、目を合わせることなく通り過ぎていく。
真壁が、冷徹な監視者のような佇まいで、松本さんの車椅子の傍らに立っていた。その足元には、若手の航平が困惑した表情で膝をついている。
「施設長、見てください」
真壁が佐藤を認めると、すぐさまタブレットの画面を突きつけた。
「松本さんの拒否により、3階全体のケア・フローに『黄色信号』が出ています。このままでは、夜勤帯への引き継ぎまでに終わらせるべき『環境整備(掃除)』の時間が削られることになってしまいます」
佐藤は真壁の言葉を制し、松本さんの前にしゃがみ込んだ。
「松本さん、どうされましたか。今日は折り紙で、みんなで大きな桜を作る日ですよ。楽しみにされていたでしょう」
松本さんは、佐藤の言葉を拒絶するように、固く目を閉じていた。そして、消え入るような声で呟いた。
「……流れるねえ。……流れていってしまう」
「何が流れるんですか?」
佐藤が問いかける。
「……雲も、風も。……わしも。止めてはくれない。誰も、わしのことを止めてはくれないんだねえ」
その言葉には、深い、底なしの孤独が滲んでいた。
「松本さん、何を言っているんですか。私たちはこうしてあなたの安全を守って、リハビリの時間だってちゃんと確保しているじゃないですか」
真壁がたまらず声を荒らげた。
「わがままを言わないでください。あなたの5分の遅れが、スタッフ3人の15分を奪うことになるんです。それがこの施設のルールなんです」
真壁の放った言葉は、佐藤がこの一年間、朝礼で何度も口にしてきた言葉そのものだった。
「スタッフを守るためのルール」
「全体の利益のための時間管理」。
それは、かつて現場が崩壊していた時には「正解」だったはずの言葉だ。
しかし、今、この孤独に震える老人の前で、その正論は、凍りついたナイフのように無慈悲に響いた。
■ 「効率」という名の窒息と、消えた「驚き」
「真壁さん。……一旦、リハビリの予定をキャンセルしよう」
佐藤が静かに告げると、真壁の表情は一変した。
「施設長……今なんて……」
「キャンセルです」
「施設長……ダメです。施設長だからルールは破ってもいい、ということですか?」
「……今回は例外対応としよう」
「でも……」
「真壁さん、すまん。自分で作ったルールだから余計に守らないといけないことはわかっている」
「だったら…… 一つでも例外を認めれば、現場はまた元の……私は、もうあんな悲惨な職場は絶対に嫌ですから!」
真壁の叫びは、現場を支えてきた人間の切実な悲鳴でもあった。彼女は、システムという「鎧」を着ることで、ようやく自分を保ってきたのだ。
佐藤は、車椅子の松本さんの視線の先を追った。
そこには、ただ灰色の空が広がり、千切れた雲がゆっくりと流れていた。
航平が、そっと口を開いた。
「松本さん……さっきから、あの雲を見ていたんですね。あの雲が、どこかに行っちゃうのが、悲しかったんですか?」
松本さんの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……誰も、見てくれん。みんな、忙しそうに、板切れ(タブレット)ばかり見て。……わしは、まだここに、いるのに」
佐藤は、自分の足元が崩れるような感覚に襲われた。
自分が導入した最新のシステム。
1分単位の記録。
事故ゼロの誇り。
それらはすべて、入居者を「人」として見るのではなく、管理すべき「物体」として処理するためのものさしになっていたのではないか。
職員たちは、松本さんの心の揺らぎを「雑音」として無視し、そして目を背けてきた。
なぜなら、その心に寄り添うことは「非効率」であり、マニュアルにはそのための時間が1秒も設定されていないからだった。
■ 「安全な孤独」の壁を越えて
結局、松本さんのリハビリは中止された。
事務室に戻る佐藤の背後には、真壁の冷ややかな視線と、周りにいて事態を推移を見守っていた何人かの職員たちの困惑したささやきがまとわりついていた。
「施設長、急にどうしたの?」
「こんなことしちゃっていいのかな?」
「せっかく定時で帰れるようになったのに、また以前みたいにグダグダになるのは嫌だよ」
事務室に戻った佐藤は、一年前の、あのボロボロだった旧式の事故報告ファイルに綴られている日報を読み返し始めた。
そこには、乱暴な手書きの字で、当時の職員の葛藤が記されていた。
『〇〇さんが今日は一日中泣いていた。何もできなかったけれど、ずっと手を握っていた。事務作業は終わらなかったが、あの方の涙が止まった時、この仕事をしていて良かったと思った』
今のデジタルな報告書に、そんな「ぬくもり」は存在しない。
ただ「ケア完了」のチェックがあるだけだ。
佐藤は、自分の手が震えていることに気づいた。
「俺は……安全で清潔な『檻』を作っていただけなのかもしれない」
手元の資料に記した美しい右肩上がりの収益グラフが、今は、入居者たちの「命の残り火」を燃料にして燃えている、冷たい炎のように見えた。
事故はない。
赤字もない。
だが、
ここには「心の交流」がどこにもない。
佐藤の中で、今、最も過酷で、最も本質的な「問い」が、はっきりとした輪郭を持って浮かび上がった。
(管理を極めることが、ケアの放棄に繋がっているのだとしたら。……俺は、一体何を、この手でつくり出せばいいんだ?)
インカムを外し、机に置く。その金属音が、静まり返った夜の事務室に、重く、鋭く、こだました。
――第3話へ続く



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