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介護施設 施設長・佐藤の人間理解物語ー管理された「平穏」ー第1話

  • tsunemichiaoki
  • 2 日前
  • 読了時間: 7分
管理

第1話 管理された「平穏」

――効率という名の正義が、現場の体温を奪っていく




無機質なデジタルが刻む、完璧な「正解」

午前8時45分。

施設長・佐藤健一(48歳)は、事務室の大型モニターに映し出される「リアルタイム・ケア・ログ」を凝視していた。


画面上では、全入居者30名の状態がカラーバーで表示されている。

青は「安定」、黄色は「ケア中」、赤は「要対応」。


一年前、経営難に陥っていたこの『ひだまりの家』に着任した際、佐藤が最初に取り組んだのは、「曖昧さ」を排除することだった。


「佐藤さん、今月の事故報告書、またゼロですよ」


事務員の言葉に、佐藤は短く「当然だ」と返した。

かつてこの施設を支配していたのは、ベテラン職員たちの「勘」という名の、あまりにも不安定な基盤だった。


「今日はなんとなく顔色が悪いから、散歩はやめておこう」

「いつもより寂しそうだから、少し長く背中をさすってあげよう」


そんな主観的な判断が善意であちこちで行われていた。

それを評価してくれる人もいたが、佐藤はよしとはしなかった。


なぜなら結果として業務は際限なく膨らみ、残業は常態化し、現場には殺気立つような感すらあったからだった。

さらに入居者が転倒すれば「誰が見ていたんだ」と責任のなすり合いまで起きていた。

結果としてケアワーカーの離職者は後を絶たなかった。


佐藤はそれを、徹底した「標準化」で塗り替えた。


入浴介助は一人あたり18分。排泄巡回は120分おき。

食事の配膳ルートは最短距離を計算し、すべての職員にインカムを装着させた。

今や、職員の指先一つでタブレットに「完了」のチェックが入り、そのデータが佐藤の元へ集約される。


経営はV字回復し、残業代は40%削減された。


「これこそが、現代の介護経営の最適解だ」


佐藤は自らに言い聞かせるように、モニターを閉じた。




インカムから流れる「記号化された人間」

廊下に出ると、インカムから絶え間なく音声が飛び込んでくる。


『2階、各部屋の排泄介助完了。次、3階へロスタイムなしで移動します』

『了解。まずはデイルームの飲料水補給をお願いします。予定より10分遅れています。頑張ってください』


職員たちの声に、感情の起伏はない。

かつてこの廊下には、もっと「雑音」があった。

認知症を患う入居者のとりとめのない独り言や、それに応える職員の笑い声。時には、ケアの仕方を巡ってベテランと若手がぶつかり合う、生々しい人間関係の音。


しかし、今の廊下を支配しているのは、冷徹なまでの静寂だ。

床は鏡のように磨かれ、埃ひとつ落ちていない様子すら見える。車椅子はミリ単位で整列されていると言っても過言ではない。


事故は起きない。トラブルもない。


だが、その清潔さは、どこか「命の気配」を削ぎ落とした、ここはどこかの研究所の実験室なのか、と言えるような無機質さを湛えていた。


職員たちはもはや入居者の目を見ず、手元のタブレットの「残り時間」だけを見て動いていた。




若手職員・航平の「静かな抵抗」

デイルームの隅で、佐藤は足を止めた。

若手職員の航平(23歳)が、入居者の松本さんの車椅子の傍らで、じっと立ち尽くしていたからだ。


松本さんは、かつて教師をしていたという80代の男性だ。

今は重度の認知症で、言葉を発することはほとんどない。


航平は、佐藤が改革を始めた直後に入職した。

「効率化こそがスタッフを守る」という佐藤の理想を、最も素直に吸収したはずの世代だ。


その彼が、タブレットの「10:00 リハビリ室へ移送」の通知が赤く点滅しているにもかかわらず、無視して立ち止まっている。

すでに5分が経過していた。


「……航平くん。どうした。予定の時間は過ぎているぞ」


佐藤が声をかけると、航平は肩をびくりと揺らし、ゆっくりと振り返った。


「施設長……。松本さん、今、庭の枯れ葉が舞うのを、ずっと見てるんです」

「枯れ葉?」

「はい。さっきから一回も瞬きをしないで。……何て言うか、松本さんの意識が、今、あの風と一体になっているような気がして。ここで声をかけて、リハビリ室に連れて行くのが……なんだか、すごく残酷な気がしたんです」


佐藤は小さくため息をついた。


「航平くん、君の優しさは素晴らしい。だが、以前のようなバラバラの現場に戻りたいのかい? 一人の『なんとなく』で全体のフローを壊せば、他の誰かがその穴を埋めるために走ることになる。それがミスを生み、事故に繋がるんだ」


「はい、わかってます。システムが僕たちを守ってくれていることも。でも……」


航平は言いかけて、言葉を飲み込んだ。


「でも……」


航平はすぐには言い出せず、下を向いた。

だが、意を決したように顔を上げると


「でも、こうして松本さんをリハビリ室に『運ぶ』だけの時間が、本当にこの人のための時間なのか……最近、わからなくなるんです」


「……すぐに移動させてリハビリチームに引き渡そう。それが今の君の役割だ」


「……わかりました」


航平の表情が一気に亡くなった。

唇を噛み、力なく呟いた。


そして車椅子を押し出した。

押していく彼の背中は、以前の生き生きとした若者のそれではなく、まるで精巧にプログラミングされた機械のパーツのように、重く、沈んでいた。


佐藤の目にもその光景は届いていたが、佐藤の心のアンテナは何も作動しなかった。




「安全な孤独」という檻

その夜。

佐藤は一人、深夜の巡回に出た。


最新のセンサーが見守る居室は、完璧に「安全」だった。

入居者の離床の気配があれば即座に駆けつけられる好感度のセンサーで見守られていたからだ。


ふと、昼間の航平の言葉が耳の奥でリフレインした。


『松本さんの本当の時間』。


佐藤は松本さんの部屋の前で足を止めた。

暗がりのなか、松本さんは天井の一点を見つめて横たわっている。


一年前、改革前の松本さんは、夜な夜な「帰らせてくれ」と叫び、時にはシーツを破り、職員を困らせていた。あの頃、夜勤の職員は松本さんの手を握り、宥め、共に夜を明かしていた。非効率の極みだった。


今は、そんなスタッフを困らせる行動は一切ない。薬の調整と、徹底したルーチン管理のおかげだ。

しかし、その穏やかさは、「生きている」というより、「保存されている」に近いとも言える。


一晩中、誰とも言葉を交わす必要もなく、何に怯えることもなく、ただ安全に「そこ」にいる。


(これは、成功のはずだ。誰も疲弊せず、誰も傷つかない)


管理を徹底すればするほど、入居者たちは静かになり、手がかからなくなる。

それは経営者にとっては「成功」の証だ。


だが、佐藤本人はまだ気づいていないものの、その胸の奥には、鉛のような重い問いが沈殿し始めていた。


磨かれた廊下で、佐藤の靴の音だけが虚しく響く。

その音が、スイッチオフの状態だった佐藤の心のアンテナのスイッチを入れることになった。


今日の航平の言葉。

そして自分に向けた目。

更に指示に従って松本さんを移動させていった時の背中。


それらのことが一気に佐藤の脳裏によみがえってきた。


(我々は、彼らを本当にケアしているのだろうか?そしてケアしているとは、いったい何をケアしているのか?)


(我々は、彼らの『命』を支えているのか? それとも、ただ『トラブル』を消しているだけなのか?)


そこにあるのは、統制の取れた時間。

事故が無くなった信頼される現場。


しかし、その形式としてしっかり整った器の中に、


佐藤はふと感じた。


松本さんの叫びが消えたのは、心が満たされたからではない。叫ぶ必要さえ奪われてしまったからではないか。


事故が無くなった現場に、肝心の「人間」が本当にいるのだろうか。

今まで思ったこともない違和感が佐藤の心に芽生えた瞬間だった。




第1話の終わりに


事務室に戻った佐藤は、再びモニターを開いた。

グラフは相変わらず美しい曲線を画いている。


しかし、そのデジタルな光が、今日は妙に眩しく、目に刺さった。


「……これが、俺の作りたかった『ひだまり』なのか?」


佐藤の呟きに応える者はいない。

インカムの電源を切ると、今まで感じたことがない虚しさを伴った「静寂」だけが残っていた。


その静寂こそが、組織が変わり始めるための、最初の「問い」の声だった。





――第2話へ続く












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