介護施設 施設長・佐藤の人間理解物語ー心の「ノイズ」を聴くー第3話
- tsunemichiaoki
- 2 時間前
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第3話 心の「ノイズ」を聴く
――効率の隙間に流れ出す、名前のない感情
■ 「例外」がもたらした、静かなる亀裂
松本さんのリハビリをキャンセルした翌日。施設内の空気は、薄氷を踏むような緊張感に包まれていた。
事務室のモニターに映るデータは、昨日までの完璧な「青」ではない。
松本さんのケア・ログには、
佐藤自らが入力した
『本人希望により中止(施設長判断)』
という、異質な一文が刻まれている。
現場の職員たちは、佐藤と目を合わせようとしなかった。
「例外」は、彼らにとって恐怖だ。一つの例外を認めれば、自分たちが必死に守ってきた「定時退勤」や「ミスのない作業」が崩れ去るのではないか。
その不安が、沈黙となって佐藤に押し寄せていた。
特に真壁は、朝礼の最中も一度として佐藤の方を見なかった。
彼女の背中からは、
「あなたが私たちに教えてきたことは何だったのか」
という無言の告発が漂っている。
佐藤は、重い足取りで現場を歩いた。
インカムの電源をあえて切り、自分の耳に直接飛び込んでくる「音」を拾おうとした。
しかし、聞こえてくるのは、プラスチックのワゴンが床を転がる音と、タブレットをタップする乾いた音だけだった。
そこには、かつての混乱期にあった「助けて」「ありがとう」という、心のつながりがある人の人としての声が、消し去られていた職場があった。
■ 「何もしない時間」という名の、無謀な試み
午後のカンファレンス。
佐藤は、集まったリーダーたちを前に、一つの提案をした。
それは、彼らにとって、これまでの努力を全否定されるような内容だった。
「来週から、午後の1時間を『ケア・オフ・タイム』とする。全スタッフ、担当する入居者の隣に、ただ座るだけの時間を作ってほしい」
一瞬、会議室の空気が凍りついた。
「……座るだけ、ですか?」真壁が、震える声で聞き返した。
「そう。タブレットも置き、インカムも外してほしい。何もしなくていい。ただ、その人が見ている景色を、一緒に見てほしいんだ」
「施設長、正気ですか!」
真壁がテーブルを叩いて立ち上がった。
「その1時間で、どれだけの事務作業が滞ると思っているんですか。入浴の回転はどうするんですか。せっかく残業がなくなったのに、またあの暗黒時代に戻れとおっしゃるんですか!」
他のリーダーたちからも、困惑と怒りの表情が浮かび上がっていた。
「それは効率化の逆行です」
「また残業をしろ、ということですか?」
「トラブルが起きたら誰が責任を取るんですか?」
佐藤は、彼らの怒りを受け止めるように、ゆっくりと視線を巡らせた。
「みなさんの言う通りです。これは効率化という観点では、完全な『逆行』でしょう。だが、昨日の松本さんの涙を見て、私は気づいたんです。……私たちは、彼らの『安全』を守るために、彼らの『存在』を無視していたのではないか。彼らがまだそこにいるという事実を、分かち合う時間を削り取ってこなかったか、ということです」
真壁は、目に涙を浮かべて佐藤を睨みつけた。
「……私は、施設長を信じてきました。標準化、そしてその管理こそが、私たちを救う道だと。あの悲劇の連続のような職場の状態からようやくこれで解放されたと……なのに」
彼女は、吐き捨てるようにそう言うと、会議室を飛び出していった。
■ 「ノイズ」の正体
翌週。反対意見を押し切る形で、「ケア・オフ・タイム」が始まった。
現場は混乱した。1時間の空白を埋めるために、他の時間は当然のように後にずれていき残業があちこちで発生した。
また、座るだけ、と言われても次の仕事が気になりそわそわしていて、結局連絡を取り合う人も続出で、ただ座る、ということはほとんどのスタッフにはできなかった。
佐藤も、自らデイルームへ出て、松本さんの隣に座った。
松本さんは、いつものように窓の外を見ていた。
沈黙。
最初の15分、佐藤は落ち着かなかった。手持ち無沙汰で、ついポケットのスマホに手が伸びそうになる。「何か成果を出さなければ」という強迫観念が、効率に慣れきった脳を急かす。
(俺は今、無駄な時間を過ごしているのではないか……)
そう自問自答した時、松本さんが、ふと口を開いた。
「……あんたも、忙しい人だねえ。背中が、焦っているよ」
佐藤は、心臓を掴まれたような気がした。
「……わかりますか?」
「ああ。ここに来る人たちはみんな、見えない何かに追いかけられている。わしらを見てるんじゃない。わしらの向こう側にある『時計』を見てるんだ」
松本さんは、ゆっくりと佐藤の方を向き、シワの刻まれた手で、佐藤の手の甲に触れた。その手は、驚くほど温かかった。
「……久しぶりだねえ。誰かの『手』を感じたのは」
佐藤の視界が、急激に滲んだ。
これまで自分がモニターで見ていた「体温36.5度」というデジタルな数字。
それは、この手の温もりを1ミリも伝えていなかった。
効率というフィルターを通せば、この温もりはただの「熱量」として処理される。
しかし、こうして手を重ねることで初めて、佐藤はこの人が「生きている」という、あまりにも当たり前の事実に触れたのだ。
■ 波紋と、小さな変容
ふと周りを見渡すと、遠くで航平が、別の入居者の女性と並んで、何やら楽しそうに庭の花を指差しているのが見えた。
女性は、普段は表情一つ変えない、重度の認知症の方だった。だが今、彼女の口元には、かすかな笑みが浮かんでいる。
一方で、真壁は遠くから、苦虫を噛み潰したような顔でその光景を見ていた。彼女の手は、いつの間にか外したタブレットを、手持ち無沙汰に握りしめている。
その夜。事務室に戻った佐藤の元に、航平がやってきた。
「施設長……。今日、初めて知ったんです」
「何をだい?」
「入居者の田中さん、昔、バイオリニストだったんですって。僕が隣に座っていたら、急に指を動かし始めて……。あの人、今まで一度もそんな話、してくれなかったのに」
航平の瞳には、かつての活気が戻っていた。
「僕たち、あの人の『今』だけを管理して、あの人の『人生』を丸ごと忘れていました」
佐藤は、深く頷いた。
効率化という網の目から、今、零れ落ちていた「ノイズ」が、美しい旋律となって響き始めていた。
だが、問題は山積みだった。
効率を下げたことで、案の定、残業時間は増え始め、現場の疲弊はすぐさま表れていた。真壁率いるベテラン勢の反発も、日に日に強まっている。
「……ここからが、本当の試練だな」
佐藤は、インカムの代わりに、松本さんの手の温もりを掌に残したまま、夜の静寂に向き合った。
(管理とケア。数字と心。……この二つの不協和音を、どうすれば調和に変えられるのか)
佐藤の「問い」は、もはや孤独な独白ではなく、組織全体を揺るがす大きなうねりへと変わりつつあった。
――第4話へ続く



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