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🌿老舗温泉旅館女将物語―社員とお客様から学ぶ経営者―第1話

  • tsunemichiaoki
  • 2 時間前
  • 読了時間: 6分
女将


第1話 形式は守っている。それなのに、なぜ伝わらないのか


朝の帳場は、いつも通り静かだった。

庭の砂利は丁寧に掃かれ、玄関の生花は季節を一歩先取りして活けられている。廊下には微かに白檀の香りが残り、客室の襖も、指紋一つない。

女将・和子は、帳場の奥からそれを眺めながら、「今日も抜かりはない」と心の中で確認した。


創業百二十年。この宿は、父から、そしてその前の代から、“型”を守ることで生き残ってきた。


お辞儀の角度。声の高さ。言葉の選び方。お客様との距離感。


すべてに理由があり、すべてが「正しい」。


それなのに――

和子の胸には、ここ数年、拭いきれない違和感が居座っていた。



何かが足りない気がする。

でも確信は全くない。そして誰もそのことを直接言えていない。

お客様からもクレームはない。


でも何か・・・。

その“何か”が、形ではなく“空気”のようなものだと、和子はうすうす感じていた。




■ 評価は悪くない。それでも残る、ざらつき

予約サイトの評価は★4.0。決して低くはない。


「料理が丁寧」「建物に風情がある」「接客が落ち着いている」

どれも、長年積み上げてきた努力の結果だ。



だが・・・

コメントの下のほうに、時折混じる言葉が、和子の目に留まる。


「思ったより印象に残らなかった」「悪くはないが、また来るかは分からない」「昔ながら、という感じ」


(“昔ながら”は、褒め言葉じゃないのか…?)


和子は、スマートフォンを伏せ、帳場の木目を見つめた。

父の代なら、「評価が高いなら問題ない」で終わっていたはずだ。


もちろんその時代に今のようなネットでの点数評価というものはない。

だから具体的な比較ができるわけでもない。

でも次に進むうえでの確たる何かがあった。



そしてそのようなツールができた今、評価が高いのに、確たる何かがつかみきれない。

そして未来が何とはなしに見えない、という感じになってしまう。


その感覚が、女将としての自分を、少しずつ不安にさせていることは間違いない。

そこまではわかっている和子だが、どうにもその先に踏み出せなかった。




■ 若手社員の「数字の見方」は、どこか違っていた

昼過ぎ。フロントの奥で、若手社員の真奈がタブレットを操作しているのが見えた。


二十代後半。都会のホテルから転職してきて、まだ三年目だ。


「何を見ているの?」


和子が声をかけると、真奈は一瞬驚いたように顔を上げ、すぐに画面をこちらに向けた。


「口コミです」

「また?」


思わず、少しだけ語気が強くなる。


「数字は悪くないでしょう?」


真奈は、少し言葉を選ぶように間を置いた。


「はい。でも…… 星の数じゃなくて、 “どんな気持ちで書かれているか”を見てます」


その言い方に、和子は小さな引っかかりを覚えた。

自分の想定していない範疇でのやり取りになったからだった。


ネットでの評価結果と気持ち??

和子の頭の中に?マークが浮かんだ。


(数字は理解できる。でも“気持ち”とは何を指すのか)


和子は、説明を求めるより先に戸惑いが勝っていた。




■ 「感情を見る」という発想

「気持ち?」


和子が聞き返すと、真奈はスクロールしながら説明した。


「例えば、この人は“安心した”って書いてます。 この人は“懐かしかった”。 でも、この人は“特に何も書いてない”」


「それが、何か違うの?」


真奈は、少しだけ言い淀んだ。


「……何も書いてない人ほど、記憶に残ってない可能性が高いです」


その言葉に、和子は思わず眉をひそめた。


「でも、失礼があったわけじゃないでしょう」

「はい。だから“満足”はしてると思います」


真奈は続けた。


「でも、“語りたい体験”にはなってないのかもしれません」


“語りたい体験”という言葉が、和子の胸に小さく刺さった。




■ 女将の中にある「美意識」

和子は、少し黙り込んだ。


この宿の価値は、

“静かさ”にある。“控えめさ”にある。“出過ぎないこと”にある。


それは、女将として叩き込まれてきた美意識だ。

お客様に語らせないほど、自然に溶け込むもてなしこそが、本物なのだと。



若い頃、初めて帳場に立った日。お客様に話しかけすぎて、裏に呼ばれ、きつく叱られた。


「余計なことをするな」

「もてなしは、見せるものじゃない」


その言葉に、救われた経験もある。

形式を守ったからこそ、場が荒れず、クレームを防ぎ、多くの時間を無事に乗り越えてきた。


だからこそ――それを疑うことは、これまでの自分を否定することに近い。


「記憶に残らなくても、心地よければ、それでいいのでは?」


和子の言葉に、真奈は否定せず、ただ首を横に振った。


「心地よさも、大事です」

「でも……今のお客さんは、 “誰かに話したいかどうか”で体験を判断している気がします」


“正しさ”が揺らぐとき、人は自分の足場まで揺らぐ。和子もまた、その揺れの中にいた。




■ すれ違っているのは、正しさではなかった

二人の間に、短い沈黙が落ちた。


和子は気づいていた。真奈の言っていることは、間違ってはいない。

だが、それをそのまま受け入れることには間違いなく抵抗があった。


(語らせるために、何かを“足す”必要があるのか?)

(それは、この宿らしさなのか?)

(そもそも語らせないといけないのか?)


守ってきたものと、変わろうとする感覚が、

女将の中でぶつかり合っていた。

と同時に、経営者と従業員、それなりの年齢と若い人々とのぶつかり合いでもあった。


それがどのような意味を持つのか。

まだ和子にも真奈にも全く分かっていない。




■ その夜、女将は一人で口コミを読み返す

夜。帳場の灯りを落とした後、和子は部屋で再びスマートフォンを開いた。


評価は、やはり悪くない。

だが、“また来たい理由”が、どこにも書かれていない。


そのとき、ある一文が目に留まった。


「きれいで、丁寧で、 でも、どこか他人行儀に感じた」


胸の奥が、わずかに痛んだ。


(私たちは、“正しく”やりすぎているのかもしれない)


和子はそこまででスマホを閉じ、仕事の時間を終えた。

深夜の入浴を終え、布団の中で目を閉じた。


「おもてなし」とは、

当社にとっての美意識を貫くことなのか。それとも、相手の記憶に入り込むことなのか。


答えは、まだ出ない。


だが――ここに問いがあることだけははっきりと感じることができていたい。


そしてその問いを無視できなくなっている自分がいることも分かった。

だが次の一歩はいったいどこに向かって踏み出せばよいのか。

そもそも踏み出すべきなのか。

それすら今の和子にとっては闇の中、という状況だった。



経営数値の上で何もその兆候は感じられない。

従業員の出入りもありがたいことに、ほとんどなく、みな一生懸命働いてくれている

という手ごたえも感じていた。


だが、真奈は何かを感じて、動こうとしている。


それが勝手なことなのか、自分でも見えていない部分への先見の明なのか。

それを深く探求してみようという問題意識も和子の中に醸成されてきたわけでもない。

 

和子は、答えが出ないことそのものが、すでに“問いが始まっている”証だと気づき始めていた。



大海の中に一滴が投じられた。











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