ITエンジニア企業・佐伯社長物語—第4話ー(軸)
- tsunemichiaoki
- 5 日前
- 読了時間: 12分
ハーモニー経営の一端を垣間見ていただくために、あるITエンジニア企業の社長の苦難、そしてそこから這い上がる物語をお伝えします。

第4話
軸を選ぶということ
――答えのない場所で、共に立つ覚悟
■ 前夜――問い直される「社長」という役割
夜のオフィスは、昼間とはまるで別の顔を持っている。
照明の落とされたフロアに、パソコンの待機ランプだけが淡く点滅していた。
佐伯は一人、デスクに向かっていた。
資料を開いているわけでも、メールを書いているわけでもない。ただ、椅子に深く腰を下ろし、天井を見上げている。
パソコンの画面はすでにスリープ状態に入り、黒い鏡のように自分の顔を映している。
(善意が、軋みを生んだ)
その言葉が、頭の中で何度も反芻される。西田の声ではない。岡田の声でもない。自分自身の中から浮かび上がってきた言葉だった。
現場に行った。声を聞いた。社員を見た。
どれも、これまでの自分が「やれていなかったこと」だ。だからこそ、正しいと思った。遅すぎたが、ようやく始められた、とすら思っていた。
だが現実はどうだったか。
部長たちは戸惑い、現場では指揮系統が揺れ、岡田は板挟みになった。
(俺は……何を間違えたんだ)
そう考えかけて、佐伯は小さく首を振った。違う。問いが違う。
西田の言葉が、ふと胸の奥で蘇る。
――「社長、その一歩は間違っていません」
では、何が足りなかったのか。
(俺は、何を恐れていたんだ)
答えは、すぐには出なかった。
佐伯は、机の上に置かれた手帳を開いた。そこには、数週間前に書いたメモが残っている。
社員との距離を縮める風通しを良くする自分が変わる
どれも間違っていない。だが、どれも曖昧だった。
(俺は、正しいことをやろうとしていただけだ)(でも……正しさだけじゃ、足りなかった)
だが、輪郭だけは見え始めていた。
恐れていたのは、任せること。委ねること。
自分が「中心」にいない状態になること。
創業期。会社は、自分そのものだった。判断も、責任も、決断も、すべてが自分に集約されていた。
だが今は違う。
社員が増え、部長が生まれ、組織は「自分の延長」ではなくなっている。
それでも佐伯は、無意識のうちに、「自分が直接見なければ」「自分が直接聞かなければ」と、手綱を引き寄せていた。
(信じていなかったのか……?)
社員を、ではない。部長たちを、だ。
その事実に気づいたとき、胸の奥が静かに痛んだ。
翌日は、部長会が控えている。避けては通れない場だった。
佐伯は椅子から立ち上がり、窓の外を見た。夜景の向こうに、答えはない。だが、逃げ場もなかった。
(俺は……何をやってきたんだ)
この問いは、ここ数日、何度も頭に浮かんでは消え、また浮かんできた。だが今夜は、少し違っていた。
(何を間違えたか、じゃない)(俺は……何を恐れていたんだ)
社員と距離ができていること。現場が見えていないこと。
それ自体は、数字や報告書を見れば、どこかで気づいていた。
だが、そこから目を逸らしてきた理由は何だったのか。
(社長が現場に踏み込むのは、格好悪いと思っていたのか)(知らないと言うのが、怖かったのか)
「分かっている社長」でい続けること。
それが、自分にとってどれほど重要だったのかを、今さら思い知らされる。
岡田の言葉が、胸の奥で何度も反響していた。
――否定されたのは、改革ではない。――否定されたのは、「分かっているつもりでいた自分」だ。
西田の顔が浮かぶ。あの穏やかな口調。
しかし、決して逃げ道を与えない視線。
――社長は、もう独りで進む段階ではありません。
その言葉の意味が、今になって、ようやく腹に落ち始めていた。
明日は、部長会だ。逃げ場はない。
佐伯は、静かに息を吐いた。
(完璧な答えは、出せない)(だが、逃げないことだけは……できるはずだ)
それだけを胸に、佐伯は照明を落とした。
■ 部長会という「試される場」
翌朝。会議室には、いつもより早く、4人の部長が集まっていた。
誰も雑談をしない。資料を広げる者もいない。ただ、それぞれが、微妙に距離を保って席に着いている。
そこに、佐伯が入ってきた。
「おはようございます」
その一言が、やけに大きく響いた。
返事はあったが、どれも短い。
佐伯は席に着くと、一度、全員の顔を見渡した。
視線が合う者もいれば、目を伏せる者もいる。
(当然だな)
自分がしてきたことを思えば、この空気は、むしろ自然だった。
「……今日は、時間を取ってもらってありがとう」
そう前置きして、佐伯は頭を下げた。
「まず、謝らせてください」
部屋の空気が、わずかに揺れた。
「ここ最近、私の行動で、皆さんに戸惑いや不安を与えたと思います」「現場への訪問、社員との直接のやり取り……」「皆さんの立場や役割を、十分に考えきれていませんでした」
誰も、すぐには反応しない。だが、その沈黙は、拒絶ではなかった。
(聞いては、いる)
佐伯は、言葉を続けた。
「私は、会社を良くしたい一心でした」「ですが、その“良さ”を、自分一人で定義しようとしていた」「それが、今日、皆さんに一番伝えたい反省です」
部長の一人が、わずかに姿勢を変えた。だが、賛同の言葉は出ない。
(拍手も、同意も、いらない)
佐伯は、そう自分に言い聞かせた。
「正直に言います」
佐伯は、顔を上げた。
「私は、ずっと“正しい判断”をしようとしてきました」「社長として、間違えないために」
部長たちは黙って聞いている。
「でも、気づいたんです」「正しさを一人で抱えるほど、組織は歪む」
その言葉に、西田がわずかに目を伏せた。
「私は、もう独りで決めません」「皆さんと一緒に、迷います」
部屋の空気が、静かに変わった。
■ 反発と沈黙のあいだ
しばしの沈黙のあと、最初に口を開いたのは管理部長だった。
「社長のお考えは、理解しようとしています」
その言い方には、距離があった。
「ただ……現場にどう落とし込むのかが、正直まだ見えません」「方針として示されているわけでもない」「数値目標があるわけでもない」
しばらく間をおいて、技術部長が続く。
「お考えは、わかる気がします」「社員を大事にする、現場を見る」「それは、誰も反対しないでしょう」
「でも――」
その先を、あえて言葉にしない。それが、彼なりの配慮だった。
総務部長は、さらに少し間を置いてから言った。
「社長が変わろうとしているのは、感じます」「ただ、正直に言えば……いきなりのことですし、正直、雲をつかむような話です」
誰も責めてはいない。だが、誰も乗れていない。
会議室は、奇妙な状態に入っていた。
否定されていない。しかし、動けない。
(止まっているんじゃない……判断を保留しているんだ)
佐伯は、そう理解した。
そして、その空気を最も正確に感じ取っているのが、西田だということも。
西田は、発言を急がなかった。部長たちの言葉を、一つひとつ受け止めるように聞いてから、ようやく静かに口を開いた。
「皆さんが言っていることは、もっともです」
その一言で、場の緊張がわずかに緩む。
「社長の言葉は、“完成形”には程遠いですね」「だから、掴みきれないのは当然です」
西田は佐伯を見る。
「ですが、私は一つだけ感じています」「社長は、“答え”を出そうとしているのではない」「“姿勢”を示そうとしているのだ、と」
佐伯は、その言葉に救われるような気持ちになった。
西田は、黙ったまま、全体を見渡していた。佐伯の言葉。部長たちの反応。そのすべてを、静かに受け止めている。
(彼らは、分かろうとしている)(だが、まだ掴めていない)
佐伯は、ここで初めて、胸の奥にあった焦りを手放した。
(急ぐ必要はない)
■ 完璧な答えを手放す
「皆さん」
佐伯は、ゆっくりと口を開いた。
「正直に言います」「私は、まだ明確な答えを持っていません」
部長たちの表情が、わずかに変わる。
「どんな仕組みが最適なのか」「どこまで私が関わるべきなのか」「それを、今日ここで、きれいに示すことはできない」
再び、沈黙。
だが、佐伯は再び続けた。
「ただ、一つだけ、はっきりしていることがあります」
視線が集まる。
「私はもう、“分かっている社長”を演じるのをやめたい」「分からないことを、分からないと言える組織でありたい」
西田が、静かにうなずいた。
「現場と経営の距離を縮めることを、私たちは少々さぼっていたのではないですしょうか」「ですが、それは私が一人で動くことではありませんでした」「皆さんと一緒に、役割を整理しながら進めたい」
それは、方針というより、姿勢だった。数値も、期限もない。
だが、嘘はなかった。
田中部長は腕を組み、視線を窓の外に向けた。(社長の意図は分かる。だが、今さら何を、という気もしてしまう)
村上部長は、資料の端を指でなぞりながら、頭の中で組織の構図を整理している。(正直、まだ理解できない。だが、社長を信じたい自分もいる)
松井部長は、書類に目を落としたまま、心の中で呟く。(社長はこの会社をいったいどうしたのだ、この先どうなっていくんだ)
西田部長だけは、佐伯の目を見てうなずく。(これでいい。今は社長を支え、軸を一緒に作る段階だ)
佐伯は部長たちの微妙な空気を読み取りながら、言葉を選んだ。
「私が動くのは、現場を理解するため。そして、皆さんの役割を活かすため」「そのためには、部長である皆さんの力は不可欠です」
西田が、補足するように口を開いた。
「社長がおっしゃっているのは、今ここで“正解を出す”ことではない、ということでよろしいですか」
「はい、“考え続ける軸”を、共有したいということです」
部長たちは、すぐには反応しない。だが、先ほどまでの緊張とは、質が違っていた。
(これは……押し付けではない)
誰も、そう口にはしない。
だが、空気が、わずかに変わった。
さらに西田が続けた。
「社長は、変わろうとしているということですね」
一同が、西田を見る。
「社長から一人の人間としての苦悩を隠すのを止めた、と受け取ってよろしいでしょうか」
佐伯の胸が、強く打たれた。
「立派な社長でいようとするのをおやめになる」西田は、佐伯を見て言った。
「それは、新たな軸を持つということではないでしょうか」
その言葉で、佐伯の中で何かが、静かに定まった。
(改革を進めるのは大事だ。だが、それ以上に大事なのは、軸を持つこと)
“軸”とは何か。
経営者として揺るがない指針。社員を信じ、自らを信じ、組織を導く芯。
(私の軸は何か……)
頭の中で過去の経験が連なり、目の前の現場の顔、岡田の言葉、部長たちの表情がフラッシュバックする。
そして佐伯は、ある結論に至った。
――社員を“見る”こと、声を“聞く”こと、そして部長たちの“役割を活かす”こと。この三つこそが、私の軸だ。
会議の最後、佐伯は再度言葉をまとめた。
「皆さん、私はもう一度立ち止まる。そして、皆さんと一緒に進む」
「部長の皆さんも、それぞれの現場でまずは課題を抽出して欲しい。この会社を今一度前進力のある会社にしていきたいのです。そのためにそれぞれの力を発揮してほしい」
田中は軽くうなずいた。
村上も視線を佐伯に向けた。
松井はまだ表情を固くしているが、資料を閉じる手は緩んでいた。
(完全な理解ではない。それでも、一歩は動いた)
佐伯は心の奥でつぶやく。――ここから、全員で道を作る。
■ 現場に届く、小さな変化
会議が終わり、部長たちは静かに部屋を出ていった。
誰も「賛成です」とは言わなかった。だが、「反対です」という言葉もなかった。
部長の一人は、デスクに戻り、考え込んでいた。
(正直、まだ腹落ちはしない)(だが、逃げていないのは、伝わった)
それぞれの場所で、それぞれのスピードで、小さな揺れが生まれていた。
夕方。佐伯は、西田と並んで窓の外を見ていた。
「どう思いましたか。今日の部長会」
西田は、少し考えてから答えた。
「衝撃は起きています。ですが……健全です」
佐伯は、苦笑した。
「正直、ちょっとほっとしているんです」「もっと、反発されるかと思っていた」
「反発されなかった、ということは」
西田は穏やかに続ける。「社長が、“完璧な姿”を見せようとしなかったからでしょう」
佐伯は、ゆっくりとうなずいた。
翌日。
廊下で、若手社員が二人、ひそひそと話している。
「きのうの臨時部長会、なんかいつもとは全く違ったらしいよ」「らしいね。社長が頭下げたようなことも聞いたけど」「社長だけじゃなく、ようやく部長たちも一緒に動くってことになったらしいよ」「やっと全員で進む感じになるのかな……」
別のフロアでは、中堅社員が、同僚にぽつりと言う。
「社長、最近変わったよな」「まだ何がどうなるかは分からないけどさ」
岡田にもそれらの声が届いていた。少しだけ目を細めた。
(すぐには変わらない)(でも……動き始めてはいる)
数日後。
岡田から、短いメールが届いた。
部長が現場の話を聞いてくれるようになりました。
社長が直接来なくても、空気が少し変わっています。
佐伯は、画面を見つめながら、深く息を吐いた。
(すぐに結果は出ない)
それでいい、と初めて思えた。
まだまだ軸は揺れている。だが、確実に動き出している。
佐伯もオフィスの窓からフロアを見渡す。
背筋を伸ばし、深く息を吸った。
(軸は見えた。ここからだ)
善意と理解の間に生まれる軋み。だが、その先には希望がある。
――次の挑戦に向け、佐伯は歩き出す。
■ 軸とは、答えではなく姿勢
夜。佐伯は、西田と二人で、静かな会議室にいた。
「軸が見えた気がします」
「はい、それで……」
「自分の会社じゃない、みんなの会社だ、ということですね」
西田は、ゆっくりとうなずいた。
「良い軸です」「そして、一番難しい」
佐伯は、苦笑した。
「だから、もう独りではやらない」
その言葉に、西田は確かに、微笑んだ。
■ 答えのない場所へ
翌朝。
佐伯は、いつもより早くオフィスに入った。デスクに座り、ノートを開く。
そこに書いたのは、計画でも、戦略でもない。
独りで決めない分からないと言う関係性を壊さない
それだけだった。
成功の保証はない。正解もない。
だが、戻らない場所だけは、はっきりしている。
佐伯は、立ち上がった。
迷いながらでも、共に進む経営者として。
――物語は、ここで終わる。だが、経営は、ここから始まる。
(俺は、まだ成功した経営者ではない)(だが……逃げてはいない)
それだけで、十分だとは思わない。だが、ゼロではない。
窓の外には、夕暮れの街が広がっている。その中に、まだ進むべき道は見えない。
それでも、佐伯の胸には、確かな感覚が残っていた。
(軸は、もうある)(まだ名はないが……確かに、ここにある)
成功は、まだ遠い。だが、迷いながらも、進む方向だけは、定まりつつあった。
――佐伯の物語は、静かに、次の段階へと踏み出していた。
(了)
これまでの物語は
第3話
第2話
第1話




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