🌿老舗温泉旅館女将物語―社員とお客様から学ぶ経営者―第4話
- tsunemichiaoki
- 2月25日
- 読了時間: 7分

第4話 宿に眠っていた価値が、女将を目覚めさせる
――「変わらない場所」が、未来を開くとき
■ 真奈の体験を聞いた夜、和子の胸に残ったもの
その夜。帳場の灯りを落とし、静まり返った廊下を歩きながら、和子は真奈の言葉を何度も反芻していた。
「この宿の“ゆっくりした時間”って、お客様が感じ取ってくださって初めて成立するものなんですね」
昨日の会話の最後に真奈がダメ押しのように言った言葉が
脳裏に焼き付いていた。
その言葉は、湯気のようにふわりと胸に残り、消えそうで消えない。
(ゆっくりした時間……そんなものを、私は意識したことがあっただろうか)
形式を守ることに必死だった若い頃。父の言葉を守ることで精一杯だった中堅の頃。そして今。
“時間”という視点で宿を見たことは、一度もなかった気がする。
部屋に戻り、浴衣の帯をほどきながら、和子はふと、鏡に映る自分の顔を見つめた。
(私は……何を見てきたんだろう)
鏡の中の自分は、どこか疲れて見えた。
ちょっと自分に腹が立つとともに、悲しさもこみあげてきた。
■ 翌朝、同じ景色が違って見えた
翌朝。帳場に立つと、昨日と同じ景色が広がっていた。
庭の砂利。生花。廊下の香り。静けさ。
だが、今日はその静けさが
“単なる静けさ”ではなく“ゆっくりとした静寂”に見えた。
(ここには……何かが流れている)
それは、都会のホテルにはないもの。豪華さでも、設備でもない。
“自分たちの旅館が持つ大事な質”だった。
お客様が歩くたびに、空気がゆっくりと揺れる。
湯気が立ち上るように、この宿には“時間”が漂っている。
(私は……この宿の何を守ってきたんだろう)
胸の奥に張り付いたざわつきは一向に収まる気配がなかった。
■ 真奈の接客を思い返す
和子は、昨日の真奈の接客を思い返していた。
踏み込みすぎた言葉。主客転倒の会話。型から外れたやり取り。
だが――お客様は満足していた。むしろ、心が通っていた。
(あの子は、この宿の価値を“お客様から”教えてもらったんだ)
それは、和子が長年避けてきたことだった。
自らをさらけ出して、お客様と図る心の交流。
シティホテルとは違う、日本の昔ながらの旅館の光景。
そして、お客様との距離。
それに加えて、
宿の価値を“自分で決める”のではなく、“お客様の感じ方から学ぶ”という姿勢。
(私は……何を恐れていたんだろう)
形式を崩すことか。父の教えを裏切ることか。自分の無知を認めることか。
どれも、少しずつ当てはまる気がした。
と同時に、自分が守りに姿勢に入ってしまい、
本来持つ自分たちの力を忘れかけていたことにも気づき始めていた。
■ 宿の本当の価値とは何か
昼下がり。和子は、誰もいない大浴場の前に立っていた。
湯気がゆらゆらと揺れ、外の木々が風にそよぐ音がかすかに聞こえる。
(この空間は……時間をゆるめるためにある)
豪華さではない。派手さでもない。
“戻るための場所”。“ほどけるための場所”。“自分を見つめ直すための場所”。
それは、古来、日本人が大切にしてきた“和の空間”、“和の時間”そのものだった。
(これは……間違いなくうちの宿の価値だわ)
そしてそれはただ単にそこにある設備のせい、ということではなかった。
その設備、施設が長年使い込まれてきた、
長年、いろいろなお客様と接してきた。
それらすべてが詰まったうえで、そこに流れる目に見えないものの存在のおかげだった。
ようやく、胸の奥で何かが腑に落ち始めた。
■ 父の言葉が、別の意味を持ち始める
ふと、亡くなった父の声がよみがえる。
「女将はな、目立たなくていいんだ」
「宿の主役は、お客さんの時間だからな」
若い頃はその言葉を“慎ましさの教え”として受け取っていた。
だが今、別の意味が立ち上がってくる。
(お客さんの時間を、本当に理解できていただろうか)
目立たないことと、関心を持たないことは、違う。
(私は……
“お客様の時間をつくりだすこと”を忘れていたのかもしれない)
父の言葉は、今になってようやく本当の意味を帯び始めていた。
■ 真奈との対話が、和子を動かす
夕方。帳場に戻ると、真奈が掃除をしていた。
「女将さん、昨日のこと……もし失礼があったなら、改めてお詫びします」
和子は、静かに首を振った。
「謝る必要はまったくないわ。あなたのおかげで、私も気づけたことがあるの」
真奈は驚いたように目を見開いた。
和子は続けた。
「この宿はね、“何もしない時間”を提供する場所なのよね。それが、昔からずっと続いてきた価値だったの……私は、それを言葉にできていなかった」
真奈は、黙って聞いている。
昨日、あなたの言ってくれた
「『この宿の“ゆっくりした時間”って、お客様が感じ取ってくださって初めて成立するものなんですね』
っていうあの言葉。
ようやく私が理解できずにいたことから抜ける扉を見せてくれたのよ」
「この宿も持つ価値は、単なる静かな空間やお湯の力ということではないの」
「それらの設備からつくり出される、空間、時間の中にお客様を含めた皆がいることによって生まれる何かなの」
「まだその何かが私にもつかみ切れていないのでうまく言葉にできないけど」
「でもあなたならその何かはもうすでに感じてくれているわよね」
「あっ、はい。全く言葉にはできないのですが、何となく」
「その目に見えない価値を磨くことこそがこの先、私たちが最も大事にしなければいけないことだと思うの」
「真奈さん、そのためにあなたには大きく期待しているわね。見えない何かをうまくつかみ取って、そして言葉で私たち皆が共有できるようになるために力を貸してほしいの」
「それだけの価値がこの宿にはあるはずだから」
珍しく和子の長口舌だった。
だが、真奈にはすっとその長い言葉が沁み込んでいっていた。
「私、この宿がもっと好きになりました」
その言葉に、和子の胸がじんわりと温かくなった。
(変わるのが怖かったんじゃない。“何を守るべきか”を見失っていたんだ)
(いや、そもそも“自分たちの持つ価値”を私がわかっていなかったんだ)
■ 和子の中で芽生えた決意
夜。帳場の灯りを落としながら、和子は静かに決意を固めていた。
(この宿を……“ときの宿”として磨いていこう)
和の空間。心がほどける時間。
それは、現代社会が抱える問題にも相通じるはず。
都会の方々の間でよく言われているデジタルデトックスということだって
うちの旅館に来ればより深く感じていただけるはず。
和子の中でようやく点が線になりつつあった。
更に急に思い出したことがあった。
ある時来た外国人のお客様。
最初は戸惑っていた感じだったけど、連泊したこともあって
2日目にはとってもリラックスした表情と雰囲気になっていたとともに
どうしても目立ってしまう外国人の体形や髪の色であったにもかかわらず
2日目にはなんかその存在感が消えて宿になじんでいたことと。
なぜ、あの目立つ感じがなくなったのだろう。
その時にはまったくわからなかったけど、今はわかった。
宿の持つ力がその人たちをその空間になじませ、外形ではなく
その人たちの内面と宿が一体化したことによって生まれた空間になったから、
ということを。
(この宿には、まだまだ眠っている価値がある)
和子は、初めて自分の宿の未来の景色が見えた気がした。
■ 第4話の終わりに
真奈の“暴走”が、宿の価値を照らし出し、和子の心を揺さぶり、そして宿の未来を開いた。
守ってきたものは、ただの形式ではなかった。
“とき”という、目に見えない宝物だった。
そしてその宝物は、これから新しい形で磨かれていく。
――物語は、ここから始まる。
<完>
ここまでの物語は下記からどうぞ。



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